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語ろう!感電するほどの喜びを

20年代の新しいアイデンティティ

 去年の12月あたりから、僕は本を読めなくなり、アニメや映画すら観れなくなってしまった状態に陥り、この状態が今年の6月までずっと続いた。最近、院試の結果が思いの外の素晴らしい結果になったおかげかもしれないが、自分は少しずつ趣味を取り戻せるようになった。最近はまだ小説、特にsf小説を読んでいないが、一応以前好きだった文系の専門書を読めるようになり、小説を再び読めるようになる日も近いのであろう。

 ここで、院試の後で読んだ『ゼロ年代の想像力』という本について、個人の感想的なものを記したいと思う。

 単直に言うと、この本に書かれたポストモダン的な社会状況に対する分析が自分の経験や体感と一致し、簡潔にまとまって的中した分析だと言わざるを得ない。本に例として取り上げられた作品に対する批評についても、作者が提供してくれた自己完結的な、かつ(僕にとって)新しい視点に嘆服する。しかし、作者がポストモダンの日本社会の自由を擁護するあまり、氷河期世代などの被害者が経験してきた苦難を完全に無視してしまった。また、ポストモダン社会とサブカル作品を徹底的に分析できたにもかかわらず、最後の結末でいきなり「話し合おう」という社会の現状に対する処方箋を出すのが読むのに耐え難い。「話し合い」が正しく作動できず、各々の主張を掲げる集団の間のバトルロイヤルに化けたからこそ、作者が分析してきたポストモダン社会が発生したのではないか。

 『ゼロ年代の想像力』に上記の問題が存在するのを承認しながらも、この本がとっても好きで、読んでよかったと思う。僕は日本社会、具体的に言うと大学のほかのメンバーにとって他者である自分のアイデンティティに関して、自分は大学に入学してからずっと迷っていた。このアイデンティティの不確かさと不安は日々増えていき、やがて2年後半と去年の12月で鬱と言ってもいいほどの症状を引き起こしたのではないかと思う。

 近代社会に生活し、大きな物語を固く信じていた自分にとって、大学で急に現れた各々の小さな集団の分断、また小さな集団に参加することによって獲得するアイデンティティも、全くもって珍しいものだった。入学したばかりの時の自分はこの小さな集団の単純な集まりでできた社会構造を理解することができていなかったが、なんとなくそれを気付き、どこかの集団に所属しようとした。しかし他者で、疑い深い僕は、どの集団への参加もうまくいかずだけではなく、自分自身から、集団に参加することで獲得するアイデンティティに対しても疑問を抱えていた。

 少し的外れの例かもしれないが、大学に入ってから同性愛と女装に対する興味が著しいスピードで増えたのは、自分が男に抱かれたいや体に違和感を抱えたのではなく、日本社会におけるヘテロ男性というアイデンティティに違和感を感じ、それを拒否しようとしているからだ。これから僕は男とセックスするかもしれないし、女装より一歩進んでしまう可能性も否定できない、このまま異性愛者の生物学的な男性として暮らしていくのも可能だ。しかしこれはもうどうでもいいことだ、自分の真の目的は社会学的なヘテロ男性という身分を拒否することであると認識できた以上、もう社会の偏見におけるLGBTのイメージに強いて近づく必要がなく、自分の性向と性自認はどうでもいい、ヘテロ男性ではなく、社会の偏見下のLGBTでもない、クイアといった新しい身分と一致するかどうか照合する必要すらなくなった。

 セクシャリティに関する身分のみならず、科学の学徒、sf読者、サークル部員、左翼学生、僕は自分が持とうとしたほぼ全ての身分に対して、それぞれ違う理由で、違う程度の違和感を感じ、そのほとんどを放棄ないし拒否したのだ。しかし身分の拒否と放棄は容易いものではない、少なくとも僕にとってはそうだ。身分を手放していくにつれて、僕は自分がなんなのか、どのように生きていけばいいのかという至極思春期っぽい悩みを抱え始めた。旧来の大きな物語によるアイデンティティが崩壊し、小さな集団による新しいアイデンティティの獲得ができない。こうして、僕は近代とポストモダンの狭間で彷徨い続けていた。

 彷徨う時間の中、自分は少しずつポストモダン的な状況を理解できるようになったが、それはやはり薄っぺらの断片のような、名状し難いものだった。既存の認識を系統的にまとめ、把握できるような形にし、深みを与えることを手伝ってくれたのが、まさに『ゼロ年代の想像力』だ。認識が形成したとはいえ、自分は何をしたらいいのか未だにわからないのままだ。しかも、そもそも僕は自由だと謳歌されているこのポストモダン社会を信じていない、規則正しく参加しようとも思っていない。

 少なくとも、僕はかつて彷徨っていた自分、いろんな集団から脱落した自分を認識し、受け入れるようになった。これから僕も小説、特にsf小説を読むのだろう。しかし、もう自分がsfファン、sf読者だと名乗る必要がなくなったような気がする。かつて活動していたサークルの思い出は僕にとって一生忘れない大切な宝物であるが、自分はもう、事実上サークルメンバの身分を失ったことを受け入れるようになった。

 これからも、僕は暫く否定の上に成り立つ脆弱なアイデンティティで生きていくのだろう。既に始まった20年代で、僕らは自分の新しいアイデンティティを見つけ、それが他人の苦難の上に成り立つものではないことを願う。