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「スノーピアサー」と物語の舞台の空間構造

 2020年はコロナ禍の影響で、英語圏の新作ドラマが少なかった、SFドラマは尚更のことだ。その中で、今年の春にネットフリックスによって公開された「スノーピアサー」というドラマは成功した映画版と原作漫画のおかげで、注目を集めた。しかし第一シーズンが終わった今、IMDbによる評価は6.7/10という凡庸な点数に過ぎなかった。批評家と一部の視聴者に評価されなかったとはいえ、ドラマ版の「スノーピアサー」は決して駄作とは思わない。ドラマ版の失敗は主に主役を担う俳優の力不足、そしてアメリカドラマ業界の積弊であるドラマを無理やりに長引くことにあると思う。映画版と原作漫画の成功で証明されたように、「スノーピアサー」という物語とその概念自体は非常に魅力的であり、ドラマ版が上手く調理できなかっただけのではないかと考えられる。そして原作、映画とドラマを通じて、「スノーピアサー」の共通かつ最大な魅力は、気候災難で滅んだ地球を走り回る巨大な列車という物語の舞台の空間構造にあり、ドラマ版の失敗も、列車が果たしている役割を充分理解していないのが原因だと思う。

 舞台を解説する前に、「スノーピアサー」のあらすじを紹介しておこう。人工的な気候災難によって、地球は氷河期に陥った。滅ぶ寸前の人類の一部は金を払って、千両の車両と人工生態系と永久機関に近いエンジンを備える列車に乗車し、地a球を一周するレールで終わりのない旅に出た。その列車のことはスノーピアサーと呼ばれた。列車に逃げ込んだ人々が、物資とともに階級社会も列車に持ち込んだ。特にチケットを買わずに最後尾の車両に乗り込んだ無賃乗車者は列車の統治者にほぼ見捨てられ、悲惨な日々を送っていた。それを耐えられなかった主人公は平等を実現する為に革命を起こし、革命の過程と結果は各バージョンの「スノーピアサー」によって変わる。

 一見どこでも見られる反逆の物語のようですが、ここで、「スノーピアサー」の物語が全部スノーピアサーに進行するので、スノーピアサーという舞台は物語の進行に非常に重要な役割を果たしている。スノーピアサーは列車である。列車という空間は閉鎖的、狭い幅、一直線などの物理的な構造を持つので、乗客そして乗客視点の観客に強い圧迫感と陰鬱的な感じを与え、行動の方向も前進か後退かに限られてしまう。スノーピアサーの場合、列車に出たらすぐ凍死してしまい、列車の閉鎖的な構造が一層強く強調される。普通の列車よりゲージがずっと広いにも関わらず、漫画、映画とドラマでは車両の通路と貫通扉の狭さが意図的に強調され、強烈な圧迫感と陰鬱を与えてくれたのである。また、列車が一直線であるという物理的な空間構造によって、物語のコンフリクトを構成する革命側と権力側が否応なしに列車の通路に押し出されて、相手を倒して前に進むか、倒されて後退するかという選択に迫られ、相手を完全破壊するまでに衝突し続けなければならないようになった。一直線かつ完全閉鎖のスノーピアサーでは衝突から逃れることができない。このように、スノーピアサーという舞台の空間構造の影響で、革命というコンフリクトが大いに激化され、目まぐるしいスピードで押し進められたのである。

コンフリクトは物語を発展させるエンジンであり、コンフリクトのスピードと激しさは即ち物語のスピードと激しさなのである。このような激しい物語があるからこそ、「スノーピアサー」のビジュアル的なインパクトが独特で印象的となっている。しかし、ドラマ版の創作者たちは原作漫画と映画版の特徴を完全に理解していないかもしれないが、敢えてスピード的に発展させるべきだった物語を緩やかにした。スノーピアサーの特徴を目にした観客たちは無意識のうちにも革命というコンフリクトの発展を期待していたというのに、それを緩やかにするのが観客の期待を裏切るのと同然であり、実行するにはドラマ版の創作者たちが持ち合わせていない高度なテクニックが必要。

一般的な文芸作品とは違い、SFをはじめとする幻想文学は「スノーピアサー」のようにキャラクターというよりも物語の舞台や装置などの無機質的な、非人間的な要素を借りて物語を進行させるのが特徴と面白みなのではないかと思う。この特徴を「スノーピアサー」よりもうまくそして過激的に使いこなせた作品として、アルゼンチン作家ボルヘスの短編小説「バベルの図書館」と弐瓶勉の漫画「BLEAM!」を挙げたい。二つの作品はキャラクターという要素を極力的に排除し、物語の舞台、さらに言えば舞台の空間構造に全身全霊の力を注いで描き、舞台そのものがコンフリクトの源として物語を押し進めた。こんなものは物語の体すらなしていないだろうと考える読者もいるかもしれない。確かにこの二つの作品はその過激さがゆえ、万人受けの作品とは言えない。しかし、それを受け入られる読者にとってはこの二つの作品は恐らく比類のない傑作として認識されるのだろう。

逆に言えば、舞台の空間構造を使って物語をうまく進行させるには一定の過激さが前提である。というのは、物語に大いになる影響を与えられるような舞台であるならば、往々にして読者固有の常識やロジックを反する。固有の常識とロジックを破壊し、新たな常識やロジックを刷り込ませる為には非常に過激な描写と構築が必要だと思う。実際、「スノーピアサー」は如何にも日常生活の常識とロジックと合致しているように見えたからこそ、観客の間から「なぜわざわざ列車を箱舟とするの?そんな技術と物資があれば地下避難所を作る方が、氷河期を耐え抜くのに合理的なのではないか?」という非常に致命的な批判が絶えなかった。「バベルの図書館」の場合、ボルヘスは「宇宙を構成する無限循環の図書館」という突拍子もない舞台を如何にも冷静的、理性的、確信的に描いた。まるでボルヘスが造物主であり、読者には疑う余地を与えなかった。そのゆえ、「バベルの図書館」に理解できない人が多いものの、図書館の合理性を疑う者よりも図書館に傾倒する者が圧倒的に多い。

列車の空間構造を理解し、ボルヘスの手法を学んだ韓松という中国SF作家が、2010年代に「地下鉄」と「高速列車」この二つの作品を書いた。まだ完全に日本語に訳されていないが、「時のきざはし 現代中華SF傑作選」というアンソロジーには「地下鉄」という短編集の一部である「地下鉄の驚くべき変容」が載せられているので、「スノーピアサー」を観て虚しいと感じた方々にはぜひおすすめしたいのです。