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韓松は誰?韓松はどのように中国のファン界隈に認識されいているか?

    中国SFに関する紹介の中に、劉慈欣と郝景芳の他によく出てくる名前は恐らく韓松でしょう。ここで、韓松は誰か、中国ではどのように認識されているかという質問が現れるでしょう。

簡単に言うと、韓松は中国SFの四天王とされたSF作家、新華社の要職を務めているジャーナリスト、ポピュラーサイエンス作家協会の常任理事である。

 1965年生まれ(有名な大手書評サイト豆瓣では1969年だと書かれているが、それは間違いだった。)、1980年代に「宇宙墓碑」でデビューした後、韓松は徐々にSF界隈でカルト的な人気を得て、星雲賞(星云奖)(日本の星雲賞と同じ名前だが、全く無関係な賞である)や銀河賞を始めとするいくつかの賞も受賞し、中国SFの頂点に立つ作家のひとりとして認められた。更に、「地下鉄(地铁)」などの作品は純文学界隈に話題となって、中国のポストモダン文学の発展にも相当な影響を与えたとも言えるだろう。

 これほど評価されているとは言え、韓松の作品は決して万人受けとも言えないのがファン界隈の定説であるし、商業的にもそれほど成功したと思わない。何より、韓松の作品がうまく出版されるだけでも我々ファンにとって非常にありがたいなことだ。

 というのは、やはり韓松の作品がヤバイだといわれ続けているからだ。どこがヤバイというと、露骨的なグロと性的描写、晦渋的で癖の強い文書、当局と社会に対する深刻そして大胆的な諷刺、陰鬱な物語などの側面がよく挙げられる。彼に描かれたほとんどの社会がデストピアかポストアポカリプスで、そこに生きている主人公も女々しく面倒くさいやつが多く、何もかもうまくいない。正直、僕自身が韓松先生のファンとは言え、こんな作品を読んでもエンタテインメントよりも鬱と圧迫感と苦痛の方をよく感じているのだ。しかし一旦慣れてしまったら、まるでマゾヒストになったように、彼の作品によって持たされた苦痛と鬱が癖になり、楽しくないと知りつつまた読みたいと思ってしまうようになる。このような特徴のせいで、韓松の作品を他人に勧めるにはかなり勇気が必要、というよりも誰にも教えず、自分一人でこっそりと楽しめるのが最高ではないかと思う。

 そしてまたこのような特徴の故に、韓松の作品は劉慈欣の作品と違ってほとんど外国に向けて宣伝されていないし、その中国に住んでいた者にしかわからない諷刺やユーモアも外国にうけないと思われるからほとんど翻訳されていない。

 個人勝手の想像だが、一番初期の作品を除いて、、ジャーナリストという本職による影響がかなり大きいと思う。1991年、「宇宙墓碑」などの作品を新華社に持ち込んで自分を売り込む作戦が成功して入社した後、韓松がジャーナリストとしてこの数十年間における中国の激変を報道の最前線で誰よりも早く体験し、見届けていた。このような最も充実、最も生々しい情報を把握しているからこそ、彼の作品の諷刺が読者に痛むほど共感されている。彼の主人公が単なる面倒くさいじゃなく、どの読者にもその主人公が自分ではないかと思わせる。そしてジャーナリストの職業柄かもしれないが、韓松の作品から何かを伝いたいという欲望が強く感じれると同時に、審査に引っかからないように注意深く回避しつつ、読者の理解力を信じて言いたいことをはっきりしようとしない。時にはこの表現欲があまりにも強すぎたせいで、短編では展開し切れなかった場合も存在している。その故、韓松の最高傑作がほとんど長編かシリーズ短編である。長い物語の流れの中で、その表現欲がもっと整理された全面的な形展開できるからだ。特に「紅色海洋」という作品は誰もはっきり理解したと言えないが、中国SFのカルト的な聖典とされ、1980年代の中国の自由主義知識人が改革開放の後に西が「歴史の終焉」を迎えようとする全盛期の姿を見て、中国政府、漢民族、東アジア、更にモンゴリア人種に対する絶望と不信がよく反映された。この作品の冒頭の部分が「水棲人」という題名でSFマガジンの2008年9月号に発表されたが、趣旨が原作とだいぶ違うので、参考になれないと思う。

 カフカのようなチェコ人として墺洪帝国の外に立て当局を諷刺すると違って、韓松は中国知識人がよく持っている社会の問題を指摘し、この筆で戦って、世直しをしようとする使命感と切迫感を持っている。このようなレトロ的な感情を持っているからこそ、彼は若い頃から敢えて諷刺めいたSF小説を書き、そして新華社に入社するのを志望しただろう。しかしこの感情も社会現実に影響され、韓松がポストモダン的な文字を書き始める理由の一つではないかと思う。韓松は現に存在している問題をSFに再現して批判しているが、批判に導かれた結果は進歩的な世直しよりも読者のご想像に開かれた朦朧なエンディングの方が多い、それを虚無な空回りとして認識している読者もいる。

 こんなにグダグダレビューに書いても、作品を見せない限り無駄と同然だとも言える。今のところ、日本語に訳された作品は「紅色海洋」の冒頭部分の「水棲人」、ひつじ書房の「中国現代文学 13」に載せられ2008年四川大震災の後に書かれた新作「再生レンガ」にしかないような気がする。では、中国SFの知らされなかった一面を挑戦してみたい方々は、どうぞこの冬コミに頒布される韓松の代表作とされた中編SF「暗室」をお見逃しなく!