Automatic Meme Telling Machine

語ろう!感電するほどの喜びを

「三体」と中国現代史

 7月4日に発売する中国SFの最高傑作「三体」は、文化大革命の1967年から2000年までの中国現代歴史に強く関わっている。作者の劉慈欣は創作する時、多分外国読者のことをあまり考えていなかったと思うので、70年代生まれの中国人にとって当たり前の事件をそのまま書いていた。更に、「三体」はあの時代の事件をモチーフや背景として扱っているだけじゃなくて、時代の動きも小説に反映したので、「三体」全文に対する理解や認識を深めるためにも、ぜひこの記事をご一読いただければと思う。日本語版の「三体」の序文や後書きにも、中国の歴史を紹介する内容が載せているはずだと思うが、もう発売に待ちきれない方もいるかもしれない、「三体」の予習として読んでもいいかなと思う。

 最後、小説と関連する歴史を紹介する記事とはいえ、できる限り早川が公式に出した情報と同じ程度で、ネタバレしないようにします。どうぞご安心ください。

 

1949 年 10 月、中華人民共和国が成立。

 

1958 年、毛沢東人工衛星、原爆、水爆及びミサイル(中国語:二弾一星)の研究を始めようと呼びかけた。この時期の中国はやっと初級的な工業と軍事産業を手にしたころ。その時代にあって、小銃から戦車、さらに原爆までの研究と生産を始めることになった。

1960 年、中国独自開発のミサイルの発射実験に成功。

 

1964 年、中国初の原爆の起爆実験に成功。中ソ関係の悪化によってソヴィエトからの支援が絶たれたにもかかわらず、世界有数の速さでミサイルと原爆の研究を成功した中国は、有人宇宙飛行の計画「曙光一号」を本格的に進めることになる。その目標は 70 年代に有人宇宙飛行を成功させることであった。この計画は技術力の不足と国民経済の悪化によって 70 年代に取り消され、中国初の有人宇宙飛行が実現したのはもう 30 年後の 2003 年の話だった。しかし、この時代の中国は軍事技術の飛躍的な進歩で大きな自信を得、冷戦時代特有の狂気的な軍事研究や建設計画を本格的に推進しており、「曙光一号」は一例に過ぎなかった。その他の例は、ソ連の誇る精強な戦車部隊の進軍を阻むため内モンゴル華北平野に山を建設する計画や、四川の山々を掘ってその中に核戦争に備える工場やシェルターを建設する計画などが挙げられる。

「三体」と「球電」は、この時代の軍事研究の想像力と狂気をよく反映していると思う。

 

1966 年 5 月 16 日、党中央政治局拡大会議は「中国共産党中央委員会通知」(五一六通知)を支持した。党史によると、この日が文化大革命無産階級文化大革命、通称「文革」)の始まりである。

 

1966 年 6 月 13 日、党中央と国務院は、高等教育機関の入試方法について“資産階級のテスト制度から離脱していない”“徹底的に改革しなければならない”という旨の通知を発表し、1966 年の大学入試を半年遅らせた。1 ヶ月後の新たな通知で、“今年から大学入試のテストを廃除し、推薦と選抜の方式で入試を行う”“高等教育機関の入試は、政治第一の原則を守らなければならない”という旨が通知されたが、当時すぐには実行されなかった。

文革の数年間を除いて、中国の大学入試は全国普通高等学校招生入学考試(略称:高考)の一発勝負で判定されるのがほとんどである。高考の廃除の影響で、大学に入るのを断念した学生、或いは大学に入る資格を失った学生が少なくなかった。

 

1966 年 6 月 18 日、北京大学で 40 名あまりの共産党青年団の幹部、教師、学生の間に乱闘が起こった。1966 年 8 月、中国共産党第八期中央委員会第十一回全体会議(略称:第 8 期 11 中全会)は、『無産階級文化大革命に関する決定』を通過させ、以後十年を渡る文化大革命が全面的に始まった。文化大革命は北京と上海のような大都市から全国に広がり、その激しさも次々とエスカレートしていった。紅衛兵もこの時期から、本格的に編成され始めた。

 

1967 年、『三体』の物語がここから始まった。同年、中国初の水爆の起爆実験も成功。

 

1968 年 12 月、大学に入学できず、就職もできない数百万の無職青年が毛沢東の「若者たちは貧しい農民から再教育を受ける必要がある」という指示に従い、農村部の人民公社に行き、農業生産に参加し始めた。この運動は「上山下郷運動」と呼ばれた。上山下郷運動自体は既に 50 年代から始まっていたが、1968 年からその規模が一気に拡大した。この運動の影響を受けた青年は 1000 万人を超えたともいわれている。まだ7億人しかいなかった 60 年代の中国において、この運動は社会全体に膨大な影響を与えた。「傷痕文学」という「文革のトラウマ」を描く文学ジャンルも、この運動なしには生まれなかっただろう。しかし、『三体』は文革と上山下郷運動の話を取り上げているとはいえ、傷痕文学と呼ぶのは適切ではないだろう。『三体』はあくまで文革を背景、モチーフとして扱っているだけであり、「三体」一冊を通して、また『三体』シリーズ全体を通して考えると、「三体」における歴史や人間性に対する反省は、もはや一般的な傷痕文学を超えた、もっとユニバーサルな、マクロな領域に到達していると思う。出版社が宣伝のために敢えて『三体』と文革というコンビネーションを強調するのは別にどうでもいいと思うのだが、読者として『三体』と文革というコンビネーションしか見ようとしないのは「戦争と平和」を軍事小説として読むように、甚だしくもったいない行為だと思う。

また、上山下郷運動といえば、社会主義環境保護の話が想起されるのが自然である。上山下郷運動を参加した多くの若者は林を伐採に行ったり、新たな農地を開拓したり、水利事業を建設したりしていた。水利事業の方は割といい成果を上げたが、その他の農業活動はかえって環境を破壊してしまった。「三体」にも、この歴史を反映されている。

冷戦時代の社会主義陣営において、環境保護という概念はなかった*5。社会主義理論によると、資本主義社会における資本の無制限の増殖と拡張は、必ず自然環境の破壊とバイオシステムの災難を招くとされる。一方、社会主義は資本の増殖と拡張の連鎖反応を打ち切り、自然環境が破壊されるという必然的な終焉を防ぐとする。しかし、ソ連をはじめとする官僚主義的歪曲によって、人間と自然環境の関係はマルクスが強調した共生共存の関係から、互い支配権を争い、闘争し合う関係になってしまった。その結果、皆さんもご存知、干上がったアラル海のような凄まじい傷跡が地球に残ってしまった。政治運動による環境破壊というモチーフは、「三体2」では更に大きなスケールで改めて登場することになる。

 

1976 年の冬、一連の権力闘争がやっと終わり、秩序も戻り、文革終結した。1977 年の秋、長く廃止された高考がこの年で再開された。

 

1978 年から、中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議(第 11 期 3 中全会)の後、経済と政治の改革

が始まり、計画経済から社会主義市場経済への転換が始まった。この部分に関して詳しく知りたいなら、SF翻

訳家と経済研究者の山形浩生のブログ『山形浩生の「経済のトリセツ」』をご参照してください。https://cruel.hatenablog.com/entry/2019/03/11/171113

 

1990 年代から、市場経済への転換が加速し、採算の取れていない国有企業や工場が次々と解体されたり、私有化されたりした。この時期の中国でも、東欧諸国と同様、経済体制転換に伴う大量の失業者が現れた。作者である劉慈欣が働いていた国営発電所もこの影響を受け、大量の従業員が次々と首を切られた。ファンの間では、発電所の重苦しい雰囲気も彼の作品に大きな影響を与えたとするのが定説となっている。

 

1991 年のクリスマスにソ連が崩壊した。中国が最後の主要な社会主義国家となり、アメリカの次の一手を恐怖とともに待っていた。

 

1996 年、大陸側(中華人民共和国)は台湾を武力による統一を試みるため、台湾海峡で未曾有の大規模軍事演習を行った。もし好機があったら、このまま戦争になってもおかしくはない状況にあった。しかしアメリカはその後すぐ空母艦隊を出動させ、事件は軍事演習のままで終わった。この事件は「台湾海峡危機」と呼ばれた。朝鮮戦争から今まで、このときは中米が戦争に最も近かったときだろう。

 

1999 年、同じ社会主義国だったユーゴスラヴィアが内乱に陥り、中国の人々はユーゴスラヴィアを同情しながら注目していた。そして同年から始まったコソヴォ紛争で、NATO が爆撃の時に中国の大使館も爆撃し、全中国の米国に対する怒りを招いた。劉慈欣も「混沌蝴蝶」という NATO の爆撃をテーマにして、セルビア人の愛国者が秘密兵器で NATO と対抗しようとした小説を書いた。

 

2001 年、南シナ海で、中国の戦闘機が米軍の哨戒機と接触する事故が発生し、中米の関係が更に悪化した。しかし 9.11 の影響を受け、米国は中国との些末な摩擦を無視し、中東の対テロ戦争に注力した。

これで中国はようやく米国の転覆ないし米国との戦争の恐怖から逃れた。2000 年前後、中国社会に漂った戦争の恐怖の影響で、中米、露米戦争をテーマにした軍事小説が非常に流行っていた。劉慈欣も「貧弱な途上国 vs 米国」という構図の軍事SFを「混沌蝴蝶」の他にも何篇も書いた。先述の「球電」もそのひとつであり、小説に、中米が台湾海峡で革新的な軍事技術で戦いを繰り広げた。「三体」では、このような「弱小 vs 強敵」という構図があまり展開しなかったが、小説後半の圧迫感と無力感は 2000 年の軍事SFと共通しているのではないかと思う。

 

2006 年 5 月、「三体」の連載が「科幻世界」という中国最大にして当時唯一の SF 雑誌ではじまった。「SFマガジン」とは異なり、「科幻世界」に掲載される作品はほとんど全て読切の中編と短編であり、長編が連載されることはめったにない。翌年発売された「三体」単行本の前書きによると、無理やりに「三体」を雑誌に連載した理由として、2006 年(連載開始年)が文革 40 周年であり、単行本として発売するのが困難であったことを挙げている。

「三体」の物語も 2000 年代に終わって、その後に展開したのは「三体 2」の物語である。