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語ろう!感電するほどの喜びを

読書放棄

 2020年12月から、僕は一冊の本を完読することすらできず、事実上読書不能の状況に陥ってしまった。この間、僕は何度も再び本を開こうとし、国内国外、長編短編、英日中で書かれたいろんな題材の本を読んでみたが、やっぱりだめだった。結局読み切ったのが太宰の「走れメロス」だけだった。試したたびに挫折してしまい、今手元にある万城目の「鹿男あをによし」を読み切れるならそれはそれでいい、できなければ、これを最後の試しとして、金輪際意図的に本を読むことを諦める。

 本と別れるのが実に悲しいことだ。僕は趣味を変えるのが早い人間で、一度捨てられた趣味は二度と始まったことがない。読書と映画鑑賞だけが、子供のごろからずっと続けてきた趣味であり、ここで捨てたら、一生読書できなくなるのではないかという恐怖が、僕を支配している。その恐怖から逃れようとして、僕は未だに無駄な試しを放棄していない。

 趣味とは悦びをもたらす行為であるべき、しかし、いつから読書の行為から感じたのがストレスと苦痛に変えてしまった。きっかけは明確ではないが、いくつかの問題が主要なのではないかと思う。これから言う内容には決して如何なる団体、組織、個人、作品に対する批判、攻撃する意図がありません、また、そう捉えないようにしていただきたい。

 大学に入ってから、僕は某読書団体に参加した。その時までには僕はずっと一人で本を読み、一人で感想を味わい、せいぜいSNSで他人のレビューを読むくらいだった。読書が非常に個人的なことだと思っていたのだ。しかしその団体に入ってから、僕は他のメンバーとの交流で、過去では思いもしなかった本の読み方や解析方法を学んだ。そのおかげで、作品をより充実に楽しめるようになった。活動しているうちに、僕は他人と違う角度から作品を読み解くこと、他人よりも系統的に読み解くことができるのではないかと気づいた。読書の発見がみんなに認められたとき、僕は空前の悦びを得た。

 しかし僕はこの悦びに取り憑かれ、どうしても再び味わいたくて、読書する時には如何にしても読み解くべきなのか、レビューはどう書くべきなのかといったような無駄な考えで頭いっぱいになってしまう。文字本来のリズムと楽しさに集中できず、僕は本から楽しみ感じられ無くなった。

 読み切った後のレビューの楽しみを頼りにできればまだ読書放棄するまでもないかもしれない。でも憂鬱の残響または過剰な分析のせいか、ほとんどの作品が駄作、或いは乾燥無味な作品のように見えてきて、次のページめぐるだけでも膨大な覚悟と集中力が必要となった。読書の苦痛が拡大され、読む途中何度も休憩しないといけなくなり、嫌いな作品に出くわしたら鬱陶しい気持ちは何日も続けてしまう。ここまでにきたら、読書を続けられるとしても、決して趣味として呼べず、諦めざるを得ないんだろう。

 読書をやめることに至ったことはあくまで自分の責任にあり、こうなっても、僕は某読書団体に入ったことを後悔しない。そこで体験した出来事が、掛け替えのない存在として残されるのだろう。

 といっても僕はまだ20代に過ぎず、将来の長い歳月に再び本を開くことがないと言い切れることができない。このダイアリーが本と永別する手紙にならず、暫しの別れを告げることに過ぎないように願う。