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語ろう!感電するほどの喜びを

ドラマ「アルカイダ」の感想、或いはアメリカのエゴに対する倦厭

 アップルTV+による新作ドラマ「ファウンデーション」の第一シリーズ全十話が、今日でやっと全て公開されたのだ。今年において最も注目されると言っても過言ではないこのドラマは、タイトルから間違っているのではないか、と僕は観ながらずっと思っていた。「ファウンデーション」ではなく、「アルカイダ」と名付けるべきだ。

 ドラマを通じて、原作と一致するのがせいぜいメインキャラクターの名前、いくつかのどうでもいい設定、そして不相応なタイトルしかないんだと僕が思う。公開当初で読んでいた記事では、製作陣がわかっている上で、わざとご覧のように、大胆的なアプローチを取ったようだ。しかしその結果、作品からアシモフの精神とその具現化が全く感じ取れず、20年代アメリカ特有な焦燥とエゴだけがグタグタとスクリーンから溢れ出すのだ。特に第二話では、9.11をあからさまに再現したテロ事件によって、本作は「アメリカ帝国興亡史」で他ならないことを宣言したのである。そのゆえ、この作品にとっては、「ファウンデーション」ではなく、「アルカイダ」こそ相応しい題名だと思う。

 9.11の攻撃で倒壊したツインタワーがアメリカ帝国の死の始まりを宣言したように、作中の宇宙エレベーターの倒壊もまた、銀河帝国の緩やかな死を告げたのである。死につつある帝国に対して、製作陣は自分のカリフォルニア臭いイデオロギーを劇中の人物に着せて、千億の帝国市民と僻地の蛮族に向かって、多様性だの、和解だの、理性だの、力合わせだのと長々と演説し、これこそ解決策だ!これこそ全人類にとって必要なものだ!と口説いた。

 しかし、普遍的に見えるような価値観に夢中している製作陣が、普遍性の裏にある暴力性に気付いていない。製作陣が抱えてる価値観を批判するつもりはない、それはとってもいいものだとさえ思うのだ。かといって、それを全人類に押し付けるのがどうか、と思わざるを得ない。20年代アメリカ帝国は、他の国々と似たような問題を面しているのが確かである、しかしカリフォニア的な価値観による処方箋が、どこでも通用する、或いはどこにも必要とされているという保証がない、ましてや似たような問題と言っても、各地域において、その優先順位が一致すると限らない。

 政治と文化の批判はここまでにしたい。真の問題は製作陣のエゴ、アメリカのエゴである。製作陣が、「ファウンデーション」という世界的に読まれている作品の名を借りることで、そしてネット配信という世界的な形式を取ることで、たかがアメリカ的な問題と焦燥と、カリフォルニア的な価値観と想像力を、普遍的なものと化しようとしてるのだ。製作陣はまるでキャバ嬢を説教してるおじさんのように、自分のエゴ、アメリカのエゴを他人に押し付けようとしてる。幸い、視聴者の僕らはキャバ嬢と違って、アップルTVを閉じるという選択肢を持っている。この自分のエゴを他人に押し付けることの暴力性を気付いていない製作陣は、果たして大帝のエゴを正しく批判すること、そして真の多様性を語ることができるのでしょうか。

 いずれにせよ、僕はもうアメリカのエゴの上に成り立つ言説にうんざりしてしまった。普遍的な物語にアメリカの特殊性を持ち込むのが構いませんが、このような行為が何の意味、そしてどのような暴力性を持つのかを、アメリカの創作者に意識していただきたい。

20年代の新しいアイデンティティ

 去年の12月あたりから、僕は本を読めなくなり、アニメや映画すら観れなくなってしまった状態に陥り、この状態が今年の6月までずっと続いた。最近、院試の結果が思いの外の素晴らしい結果になったおかげかもしれないが、自分は少しずつ趣味を取り戻せるようになった。最近はまだ小説、特にsf小説を読んでいないが、一応以前好きだった文系の専門書を読めるようになり、小説を再び読めるようになる日も近いのであろう。

 ここで、院試の後で読んだ『ゼロ年代の想像力』という本について、個人の感想的なものを記したいと思う。

 単直に言うと、この本に書かれたポストモダン的な社会状況に対する分析が自分の経験や体感と一致し、簡潔にまとまって的中した分析だと言わざるを得ない。本に例として取り上げられた作品に対する批評についても、作者が提供してくれた自己完結的な、かつ(僕にとって)新しい視点に嘆服する。しかし、作者がポストモダンの日本社会の自由を擁護するあまり、氷河期世代などの被害者が経験してきた苦難を完全に無視してしまった。また、ポストモダン社会とサブカル作品を徹底的に分析できたにもかかわらず、最後の結末でいきなり「話し合おう」という社会の現状に対する処方箋を出すのが読むのに耐え難い。「話し合い」が正しく作動できず、各々の主張を掲げる集団の間のバトルロイヤルに化けたからこそ、作者が分析してきたポストモダン社会が発生したのではないか。

 『ゼロ年代の想像力』に上記の問題が存在するのを承認しながらも、この本がとっても好きで、読んでよかったと思う。僕は日本社会、具体的に言うと大学のほかのメンバーにとって他者である自分のアイデンティティに関して、自分は大学に入学してからずっと迷っていた。このアイデンティティの不確かさと不安は日々増えていき、やがて2年後半と去年の12月で鬱と言ってもいいほどの症状を引き起こしたのではないかと思う。

 近代社会に生活し、大きな物語を固く信じていた自分にとって、大学で急に現れた各々の小さな集団の分断、また小さな集団に参加することによって獲得するアイデンティティも、全くもって珍しいものだった。入学したばかりの時の自分はこの小さな集団の単純な集まりでできた社会構造を理解することができていなかったが、なんとなくそれを気付き、どこかの集団に所属しようとした。しかし他者で、疑い深い僕は、どの集団への参加もうまくいかずだけではなく、自分自身から、集団に参加することで獲得するアイデンティティに対しても疑問を抱えていた。

 少し的外れの例かもしれないが、大学に入ってから同性愛と女装に対する興味が著しいスピードで増えたのは、自分が男に抱かれたいや体に違和感を抱えたのではなく、日本社会におけるヘテロ男性というアイデンティティに違和感を感じ、それを拒否しようとしているからだ。これから僕は男とセックスするかもしれないし、女装より一歩進んでしまう可能性も否定できない、このまま異性愛者の生物学的な男性として暮らしていくのも可能だ。しかしこれはもうどうでもいいことだ、自分の真の目的は社会学的なヘテロ男性という身分を拒否することであると認識できた以上、もう社会の偏見におけるLGBTのイメージに強いて近づく必要がなく、自分の性向と性自認はどうでもいい、ヘテロ男性ではなく、社会の偏見下のLGBTでもない、クイアといった新しい身分と一致するかどうか照合する必要すらなくなった。

 セクシャリティに関する身分のみならず、科学の学徒、sf読者、サークル部員、左翼学生、僕は自分が持とうとしたほぼ全ての身分に対して、それぞれ違う理由で、違う程度の違和感を感じ、そのほとんどを放棄ないし拒否したのだ。しかし身分の拒否と放棄は容易いものではない、少なくとも僕にとってはそうだ。身分を手放していくにつれて、僕は自分がなんなのか、どのように生きていけばいいのかという至極思春期っぽい悩みを抱え始めた。旧来の大きな物語によるアイデンティティが崩壊し、小さな集団による新しいアイデンティティの獲得ができない。こうして、僕は近代とポストモダンの狭間で彷徨い続けていた。

 彷徨う時間の中、自分は少しずつポストモダン的な状況を理解できるようになったが、それはやはり薄っぺらの断片のような、名状し難いものだった。既存の認識を系統的にまとめ、把握できるような形にし、深みを与えることを手伝ってくれたのが、まさに『ゼロ年代の想像力』だ。認識が形成したとはいえ、自分は何をしたらいいのか未だにわからないのままだ。しかも、そもそも僕は自由だと謳歌されているこのポストモダン社会を信じていない、規則正しく参加しようとも思っていない。

 少なくとも、僕はかつて彷徨っていた自分、いろんな集団から脱落した自分を認識し、受け入れるようになった。これから僕も小説、特にsf小説を読むのだろう。しかし、もう自分がsfファン、sf読者だと名乗る必要がなくなったような気がする。かつて活動していたサークルの思い出は僕にとって一生忘れない大切な宝物であるが、自分はもう、事実上サークルメンバの身分を失ったことを受け入れるようになった。

 これからも、僕は暫く否定の上に成り立つ脆弱なアイデンティティで生きていくのだろう。既に始まった20年代で、僕らは自分の新しいアイデンティティを見つけ、それが他人の苦難の上に成り立つものではないことを願う。

読書放棄

 2020年12月から、僕は一冊の本を完読することすらできず、事実上読書不能の状況に陥ってしまった。この間、僕は何度も再び本を開こうとし、国内国外、長編短編、英日中で書かれたいろんな題材の本を読んでみたが、やっぱりだめだった。結局読み切ったのが太宰の「走れメロス」だけだった。試したたびに挫折してしまい、今手元にある万城目の「鹿男あをによし」を読み切れるならそれはそれでいい、できなければ、これを最後の試しとして、金輪際意図的に本を読むことを諦める。

 本と別れるのが実に悲しいことだ。僕は趣味を変えるのが早い人間で、一度捨てられた趣味は二度と始まったことがない。読書と映画鑑賞だけが、子供のごろからずっと続けてきた趣味であり、ここで捨てたら、一生読書できなくなるのではないかという恐怖が、僕を支配している。その恐怖から逃れようとして、僕は未だに無駄な試しを放棄していない。

 趣味とは悦びをもたらす行為であるべき、しかし、いつから読書の行為から感じたのがストレスと苦痛に変えてしまった。きっかけは明確ではないが、いくつかの問題が主要なのではないかと思う。これから言う内容には決して如何なる団体、組織、個人、作品に対する批判、攻撃する意図がありません、また、そう捉えないようにしていただきたい。

 大学に入ってから、僕は某読書団体に参加した。その時までには僕はずっと一人で本を読み、一人で感想を味わい、せいぜいSNSで他人のレビューを読むくらいだった。読書が非常に個人的なことだと思っていたのだ。しかしその団体に入ってから、僕は他のメンバーとの交流で、過去では思いもしなかった本の読み方や解析方法を学んだ。そのおかげで、作品をより充実に楽しめるようになった。活動しているうちに、僕は他人と違う角度から作品を読み解くこと、他人よりも系統的に読み解くことができるのではないかと気づいた。読書の発見がみんなに認められたとき、僕は空前の悦びを得た。

 しかし僕はこの悦びに取り憑かれ、どうしても再び味わいたくて、読書する時には如何にしても読み解くべきなのか、レビューはどう書くべきなのかといったような無駄な考えで頭いっぱいになってしまう。文字本来のリズムと楽しさに集中できず、僕は本から楽しみ感じられ無くなった。

 読み切った後のレビューの楽しみを頼りにできればまだ読書放棄するまでもないかもしれない。でも憂鬱の残響または過剰な分析のせいか、ほとんどの作品が駄作、或いは乾燥無味な作品のように見えてきて、次のページめぐるだけでも膨大な覚悟と集中力が必要となった。読書の苦痛が拡大され、読む途中何度も休憩しないといけなくなり、嫌いな作品に出くわしたら鬱陶しい気持ちは何日も続けてしまう。ここまでにきたら、読書を続けられるとしても、決して趣味として呼べず、諦めざるを得ないんだろう。

 読書をやめることに至ったことはあくまで自分の責任にあり、こうなっても、僕は某読書団体に入ったことを後悔しない。そこで体験した出来事が、掛け替えのない存在として残されるのだろう。

 といっても僕はまだ20代に過ぎず、将来の長い歳月に再び本を開くことがないと言い切れることができない。このダイアリーが本と永別する手紙にならず、暫しの別れを告げることに過ぎないように願う。

「スノーピアサー」と物語の舞台の空間構造

 2020年はコロナ禍の影響で、英語圏の新作ドラマが少なかった、SFドラマは尚更のことだ。その中で、今年の春にネットフリックスによって公開された「スノーピアサー」というドラマは成功した映画版と原作漫画のおかげで、注目を集めた。しかし第一シーズンが終わった今、IMDbによる評価は6.7/10という凡庸な点数に過ぎなかった。批評家と一部の視聴者に評価されなかったとはいえ、ドラマ版の「スノーピアサー」は決して駄作とは思わない。ドラマ版の失敗は主に主役を担う俳優の力不足、そしてアメリカドラマ業界の積弊であるドラマを無理やりに長引くことにあると思う。映画版と原作漫画の成功で証明されたように、「スノーピアサー」という物語とその概念自体は非常に魅力的であり、ドラマ版が上手く調理できなかっただけのではないかと考えられる。そして原作、映画とドラマを通じて、「スノーピアサー」の共通かつ最大な魅力は、気候災難で滅んだ地球を走り回る巨大な列車という物語の舞台の空間構造にあり、ドラマ版の失敗も、列車が果たしている役割を充分理解していないのが原因だと思う。

 舞台を解説する前に、「スノーピアサー」のあらすじを紹介しておこう。人工的な気候災難によって、地球は氷河期に陥った。滅ぶ寸前の人類の一部は金を払って、千両の車両と人工生態系と永久機関に近いエンジンを備える列車に乗車し、地a球を一周するレールで終わりのない旅に出た。その列車のことはスノーピアサーと呼ばれた。列車に逃げ込んだ人々が、物資とともに階級社会も列車に持ち込んだ。特にチケットを買わずに最後尾の車両に乗り込んだ無賃乗車者は列車の統治者にほぼ見捨てられ、悲惨な日々を送っていた。それを耐えられなかった主人公は平等を実現する為に革命を起こし、革命の過程と結果は各バージョンの「スノーピアサー」によって変わる。

 一見どこでも見られる反逆の物語のようですが、ここで、「スノーピアサー」の物語が全部スノーピアサーに進行するので、スノーピアサーという舞台は物語の進行に非常に重要な役割を果たしている。スノーピアサーは列車である。列車という空間は閉鎖的、狭い幅、一直線などの物理的な構造を持つので、乗客そして乗客視点の観客に強い圧迫感と陰鬱的な感じを与え、行動の方向も前進か後退かに限られてしまう。スノーピアサーの場合、列車に出たらすぐ凍死してしまい、列車の閉鎖的な構造が一層強く強調される。普通の列車よりゲージがずっと広いにも関わらず、漫画、映画とドラマでは車両の通路と貫通扉の狭さが意図的に強調され、強烈な圧迫感と陰鬱を与えてくれたのである。また、列車が一直線であるという物理的な空間構造によって、物語のコンフリクトを構成する革命側と権力側が否応なしに列車の通路に押し出されて、相手を倒して前に進むか、倒されて後退するかという選択に迫られ、相手を完全破壊するまでに衝突し続けなければならないようになった。一直線かつ完全閉鎖のスノーピアサーでは衝突から逃れることができない。このように、スノーピアサーという舞台の空間構造の影響で、革命というコンフリクトが大いに激化され、目まぐるしいスピードで押し進められたのである。

コンフリクトは物語を発展させるエンジンであり、コンフリクトのスピードと激しさは即ち物語のスピードと激しさなのである。このような激しい物語があるからこそ、「スノーピアサー」のビジュアル的なインパクトが独特で印象的となっている。しかし、ドラマ版の創作者たちは原作漫画と映画版の特徴を完全に理解していないかもしれないが、敢えてスピード的に発展させるべきだった物語を緩やかにした。スノーピアサーの特徴を目にした観客たちは無意識のうちにも革命というコンフリクトの発展を期待していたというのに、それを緩やかにするのが観客の期待を裏切るのと同然であり、実行するにはドラマ版の創作者たちが持ち合わせていない高度なテクニックが必要。

一般的な文芸作品とは違い、SFをはじめとする幻想文学は「スノーピアサー」のようにキャラクターというよりも物語の舞台や装置などの無機質的な、非人間的な要素を借りて物語を進行させるのが特徴と面白みなのではないかと思う。この特徴を「スノーピアサー」よりもうまくそして過激的に使いこなせた作品として、アルゼンチン作家ボルヘスの短編小説「バベルの図書館」と弐瓶勉の漫画「BLEAM!」を挙げたい。二つの作品はキャラクターという要素を極力的に排除し、物語の舞台、さらに言えば舞台の空間構造に全身全霊の力を注いで描き、舞台そのものがコンフリクトの源として物語を押し進めた。こんなものは物語の体すらなしていないだろうと考える読者もいるかもしれない。確かにこの二つの作品はその過激さがゆえ、万人受けの作品とは言えない。しかし、それを受け入られる読者にとってはこの二つの作品は恐らく比類のない傑作として認識されるのだろう。

逆に言えば、舞台の空間構造を使って物語をうまく進行させるには一定の過激さが前提である。というのは、物語に大いになる影響を与えられるような舞台であるならば、往々にして読者固有の常識やロジックを反する。固有の常識とロジックを破壊し、新たな常識やロジックを刷り込ませる為には非常に過激な描写と構築が必要だと思う。実際、「スノーピアサー」は如何にも日常生活の常識とロジックと合致しているように見えたからこそ、観客の間から「なぜわざわざ列車を箱舟とするの?そんな技術と物資があれば地下避難所を作る方が、氷河期を耐え抜くのに合理的なのではないか?」という非常に致命的な批判が絶えなかった。「バベルの図書館」の場合、ボルヘスは「宇宙を構成する無限循環の図書館」という突拍子もない舞台を如何にも冷静的、理性的、確信的に描いた。まるでボルヘスが造物主であり、読者には疑う余地を与えなかった。そのゆえ、「バベルの図書館」に理解できない人が多いものの、図書館の合理性を疑う者よりも図書館に傾倒する者が圧倒的に多い。

列車の空間構造を理解し、ボルヘスの手法を学んだ韓松という中国SF作家が、2010年代に「地下鉄」と「高速列車」この二つの作品を書いた。まだ完全に日本語に訳されていないが、「時のきざはし 現代中華SF傑作選」というアンソロジーには「地下鉄」という短編集の一部である「地下鉄の驚くべき変容」が載せられているので、「スノーピアサー」を観て虚しいと感じた方々にはぜひおすすめしたいのです。

韓松は誰?韓松はどのように中国のファン界隈に認識されいているか?

    中国SFに関する紹介の中に、劉慈欣と郝景芳の他によく出てくる名前は恐らく韓松でしょう。ここで、韓松は誰か、中国ではどのように認識されているかという質問が現れるでしょう。

簡単に言うと、韓松は中国SFの四天王とされたSF作家、新華社の要職を務めているジャーナリスト、ポピュラーサイエンス作家協会の常任理事である。

 1965年生まれ(有名な大手書評サイト豆瓣では1969年だと書かれているが、それは間違いだった。)、1980年代に「宇宙墓碑」でデビューした後、韓松は徐々にSF界隈でカルト的な人気を得て、星雲賞(星云奖)(日本の星雲賞と同じ名前だが、全く無関係な賞である)や銀河賞を始めとするいくつかの賞も受賞し、中国SFの頂点に立つ作家のひとりとして認められた。更に、「地下鉄(地铁)」などの作品は純文学界隈に話題となって、中国のポストモダン文学の発展にも相当な影響を与えたとも言えるだろう。

 これほど評価されているとは言え、韓松の作品は決して万人受けとも言えないのがファン界隈の定説であるし、商業的にもそれほど成功したと思わない。何より、韓松の作品がうまく出版されるだけでも我々ファンにとって非常にありがたいなことだ。

 というのは、やはり韓松の作品がヤバイだといわれ続けているからだ。どこがヤバイというと、露骨的なグロと性的描写、晦渋的で癖の強い文書、当局と社会に対する深刻そして大胆的な諷刺、陰鬱な物語などの側面がよく挙げられる。彼に描かれたほとんどの社会がデストピアかポストアポカリプスで、そこに生きている主人公も女々しく面倒くさいやつが多く、何もかもうまくいない。正直、僕自身が韓松先生のファンとは言え、こんな作品を読んでもエンタテインメントよりも鬱と圧迫感と苦痛の方をよく感じているのだ。しかし一旦慣れてしまったら、まるでマゾヒストになったように、彼の作品によって持たされた苦痛と鬱が癖になり、楽しくないと知りつつまた読みたいと思ってしまうようになる。このような特徴のせいで、韓松の作品を他人に勧めるにはかなり勇気が必要、というよりも誰にも教えず、自分一人でこっそりと楽しめるのが最高ではないかと思う。

 そしてまたこのような特徴の故に、韓松の作品は劉慈欣の作品と違ってほとんど外国に向けて宣伝されていないし、その中国に住んでいた者にしかわからない諷刺やユーモアも外国にうけないと思われるからほとんど翻訳されていない。

 個人勝手の想像だが、一番初期の作品を除いて、、ジャーナリストという本職による影響がかなり大きいと思う。1991年、「宇宙墓碑」などの作品を新華社に持ち込んで自分を売り込む作戦が成功して入社した後、韓松がジャーナリストとしてこの数十年間における中国の激変を報道の最前線で誰よりも早く体験し、見届けていた。このような最も充実、最も生々しい情報を把握しているからこそ、彼の作品の諷刺が読者に痛むほど共感されている。彼の主人公が単なる面倒くさいじゃなく、どの読者にもその主人公が自分ではないかと思わせる。そしてジャーナリストの職業柄かもしれないが、韓松の作品から何かを伝いたいという欲望が強く感じれると同時に、審査に引っかからないように注意深く回避しつつ、読者の理解力を信じて言いたいことをはっきりしようとしない。時にはこの表現欲があまりにも強すぎたせいで、短編では展開し切れなかった場合も存在している。その故、韓松の最高傑作がほとんど長編かシリーズ短編である。長い物語の流れの中で、その表現欲がもっと整理された全面的な形展開できるからだ。特に「紅色海洋」という作品は誰もはっきり理解したと言えないが、中国SFのカルト的な聖典とされ、1980年代の中国の自由主義知識人が改革開放の後に西が「歴史の終焉」を迎えようとする全盛期の姿を見て、中国政府、漢民族、東アジア、更にモンゴリア人種に対する絶望と不信がよく反映された。この作品の冒頭の部分が「水棲人」という題名でSFマガジンの2008年9月号に発表されたが、趣旨が原作とだいぶ違うので、参考になれないと思う。

 カフカのようなチェコ人として墺洪帝国の外に立て当局を諷刺すると違って、韓松は中国知識人がよく持っている社会の問題を指摘し、この筆で戦って、世直しをしようとする使命感と切迫感を持っている。このようなレトロ的な感情を持っているからこそ、彼は若い頃から敢えて諷刺めいたSF小説を書き、そして新華社に入社するのを志望しただろう。しかしこの感情も社会現実に影響され、韓松がポストモダン的な文字を書き始める理由の一つではないかと思う。韓松は現に存在している問題をSFに再現して批判しているが、批判に導かれた結果は進歩的な世直しよりも読者のご想像に開かれた朦朧なエンディングの方が多い、それを虚無な空回りとして認識している読者もいる。

 こんなにグダグダレビューに書いても、作品を見せない限り無駄と同然だとも言える。今のところ、日本語に訳された作品は「紅色海洋」の冒頭部分の「水棲人」、ひつじ書房の「中国現代文学 13」に載せられ2008年四川大震災の後に書かれた新作「再生レンガ」にしかないような気がする。では、中国SFの知らされなかった一面を挑戦してみたい方々は、どうぞこの冬コミに頒布される韓松の代表作とされた中編SF「暗室」をお見逃しなく!

未来展望

[天気の子]は期待はずれだったけど、その後の食事会で先輩との議論で、自分の伊藤計劃と如何に伊藤計劃を超越できるかについての認識が刷新された。自分はまだミームを繰り返すことしかできない人間だから創作と批評が無理だけど、せめて翻訳と情報の拡散に関して努力しないと。[円]と[三体]から見ると中国SFはまだ幼いが、中国のヴィジョンがもっと成熟な英語圏或いは日本のプロ作家に何かしらの影響を与えて、彼らに活用されるなら、非常に素晴らしい作品になれるだろうと僕が期待している。

そして発展途上の中国SFにとって、やはりすでに成熟した外国からメッセージが必要かもしれない。今の中国にはすごく活躍している若手作家たくさんいるが、彼らを導く傑出なSF評論者と編集者があまりいないような気がする。外国のプロの声が僕を介してその空白を埋めるなら幸いだと思う。

伊藤計劃のような偉大な作家を越えようとするのがバカバカしくて、身の程知らずな話かもしれない。しかし僕らはやらなければならない。まずは翻訳から、まずは情報の拡散から

【ネタバレ有】「三体」に隠された構図;宇宙文明の関係、物理の真実、そして現代性に対する批判と超越

注意:本文は「三体」に対するネタバレがあるが、「三体2」や「三体3」に対するネタバレがないので、「三体」だけ読んだ方はどうぞご覧ください。「三体」をまだ読了していない方はこの記事をマークしておいて、後日に読むことがおすすめです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

訳者の後書きにもあったように、「三体」は所詮三部作における序章に過ぎない。文量においても、「三体」は全シリーズの 1/5 しかないのを強調しておきたい。「三体2」と「三体3」を読んだかどうかは、「三体」という作品に対する評価が大きく変わるだろう。特に友人から評価を聞くと、「三体」には“センス・オブ・ワンダー”が足りないと思われたらしい。ここで、次作のネタバレをしないように、「三体」に充分展開しなかった全シリーズの構図を取り上げ、「三体」の野心と魅力を伝えてみようと思う。

 

1   宇宙文明の関係

 

宇宙文明を考察するにあたって、まず「フェルミパラドックス」のことを考えなければならない。「フェルミパラドックス」というのは、宇宙に無数の恒星が存在し、宇宙の寿命も何百億年に達したにもかかわらず、地球とコンタクトしたり、地球に観測されたりした宇宙文明は今まで一つもなかったという矛盾である。このパラドックスに対して、多くの理論や仮説が提出されたが、人類が宇宙人と出会っていない以上、これらの理論や仮説が全部検証不可能な状態になっている。

しかし、「三体」によって、人類が三体文明という人類以外最初のサンプルを手に入れることが出来、宇宙文明の実態を推察することができるようになった。ここで、まず人類とコンタクトできる宇宙文明の数を推測するために考案されたドレイクの方程式を紹介する。

方程式は以下の通り。

N=Ns × R × fp × ne × fl × fi × fc × L ÷ Lg N=銀河系内で電波で交信する文明を持つ惑星の数Ns=銀河系の恒星の数

R=文明を持つ生命を生み出す条件を満たす恒星の割合

fp=その恒星が惑星系を持つ割合

ne=その惑星系で生命を生む環境がある惑星の数

fl=その惑星上で生命が誕生する確率

fi=生命を持つ惑星の中で知的生命が誕生する割合

fc=知的生命が宇宙に強い電波を出すようになる確率

L=その文明が存続する期間(つまり文明の寿命)

Lg=銀河系の寿命

そしてドレイクが代入した値は

Ns=(観測量)、R=10、fp=0.5、ne=2、fl=1、fi=0.01、fc=0.01、L=10、Lg=(観測量)

その結果、銀河系にコンタクトできそうな文明は 10 個しかないとされた。

しかし、三体人を知ることによって、方程式に代入すべき値が大きく変わるはずだ。例えば、fi と fc、この2つ変数に代入した値は、小さすぎたと考えられる。三体人は無数の災難を乗り越え、三恒星直列で全惑星の生態圏を滅ぶ大断裂のような災難すら乗り越え、20 0回にも及ぶ滅亡の末に、恒星間航行可能な技術をもつほどにまで進化した。ここから、我々は生命が誕生するならば、必ず生命は母星引力圏から脱出できるほど高度な文明を作れると考えるべきである。更に、三体人の母星のある恒星系には3つの恒星が存在しているのににもかかわらず、三体星が恒星系に何十億年も存在し続け、そしてこの惑星に高度な生命が誕生したことから、我々は変数 fp と ne も現実的にはより大きな値であると考えるべきかもしれない。これらの修正を考えると、銀河系に存在している先進文明の数がドレイクの推定よりもはるかに多いはずだ。宇宙は、まさに小説に書いたように「生命に満ちている」のだ。

しかし、このような賑やかな宇宙の中にも、葉文潔と 1379 号監視員とのコンタクトができた前に何も起こらなかった。それはなぜなのか。これについて詳しく解説したのは「三体2」であり、しかも「三体2」の冒頭の 4000 字さえ読めば、絶対感電するほど衝撃を受け、「ああフェルミパラドックスはこう解決されるのか」と納得できるようになると思う。実は、「三体」にも、いくつかそれを示唆する伏線が入れられている。

例えば、紅岸(三)では、中国の宇宙人観測計画では、宇宙人の力を借りて技術跳躍を起こし、世界革命を実現することを意図していたことが明かされる。しかし、第 187 ページでは、「メッセージは、学際的な厳しい審査を経て、天の川銀河における地球の相対座標を明らかにするような情報が一切含まれていないこと確認する……太陽系が正確に特定される可能性を低くする」とある。革命的な宇宙人がセイバートロニアンのように地球にやってきて、圧倒的な軍事力で世界革命を手伝うなら一番楽なのに、どうしてここで敢えて地球の座標を隠すことを強調したのでしょう*10。さらに、地球のメッセージを受けたとたん、三体人が全滅のリスクを負っても宇宙艦隊の出兵をすぐ決めたことから見ると、宇宙はやはり人類が思ったより何倍も危険なところだと推測される。しかも、地球のようなこれほど炭素生命体にとって恵まれた惑星というのは、全銀河から見ても珍しく、人類のような頭がお花畑の文明よりも、三体人のように牙を磨きながら、次の獲物が現れるまでに我慢強く待ち、そして好機が来たらすぐ襲い掛かる貪婪な文明の方が、圧倒的な主流的なのではないか。

「三体」だけの情報に基づいて、我々は宇宙がいかに危険で、“まっくらな”場所であるかを理解することが出来た。それをもっと簡潔にまとめたのが「三体2」の冒頭の 4000 字であり、そしてこのような宇宙に生存している宇宙文明が、どのような関係を人類と築くのか、そして三体人と人類の運命にどのような影響を与えるのかを語ったのが、「三体2」と「三体3」の物語である。

 

2   物理の真実

 

現代物理において礎となっている理論、または信念は、「物理の法則は時空に対して不変性を持つ」ということである。つまり、我々が平成 29 年のある日に筑波で検証した某理論は、平成 29 年のある日の筑波だけじゃなく、空間的に宇宙の果てまでも適用できるし、時間的には宇宙の始まりから終わりまで適用できるのだと考えられている。

理論においても、ニュートン法則が任意の慣性系にとって成立しているし、また電磁気学マクスウェル方程式も、ミンコフスキー時空においてローレンツ変換を行っても成立している。実験においても、場所 A で発見した理論が場所 B で適用できないような、気の狂ったような現象は報告されていない。しかし逆に言うと、「物理の法則は時空に対して不変性を持つ」という信念もまた、実験によって直接検証されるのが明らかに不可能である。

では、もしこの信念に反する実験事実が発見されたら、どうなるだろうか。現代物理が崩れてしまうだけでなく、近代的啓蒙以来の実験に基づく唯物的な、実証主義的な現代理学全体が崩壊するのではないだろうか。

「三体」に智子によって起こられた現象は、まさに先言ったような近代理学全体を破壊する極めて致命的なものなのだ。

しかも、「三体」で示されたのは、所詮三体人という恒星間航行の能力を手にしたばかりの若い文明による理学の破壊である。もし三体人より発展した文明が存在したら、彼らは果たして他の文明の観測をどれほど邪魔できるのだろうか。さらに言えば、観測だけでなく、現象そのものにすら干渉できるとしたら、どうなるだろうか。これらについて詳しく言及したが『三体』シリーズの後の二作だ.。ここまで考えると、「三体」の宇宙はもはやクトゥルフの宇宙のような人間にとって根本的に認識不可能な宇宙であるということが分かる。この真実を誰よりも先に知り、誰よりも深く知った科学者たちは、SAN 値が0になり、自殺でこの恐怖から逃れる以外何もできなかったというわけだ。もちろん、実際の科学者はそれほど過敏ではないと思う。

 

3   現代性の批判と超越

 

ブログに書いた記事「三体と中国現代史」で、僕は「三体の歴史や人間性に対する反省は、もはや一般的な傷痕文学を超えて、もっとユニバーサルな、マクロな領域に進化した」と言った。その最も重要な理由として、葉文潔という人物が、文革を経て共産主義体制に対して絶望しただけじゃなく、エヴァンスや無数の地球三体協会の同志たちと同じように、共産主義にせよ、資本主義にせよ、人類が現代に作り上げたすべての体制や社会に絶望し、人類のありとあらゆる未来の可能性を否定したということを挙げる。

現代性は資本主義の誕生と発展とともに生み出されたものであり、そして資本主義を批判し、超越しようとした共産主義は現代性の極地にあたる。資本主義と共産主義に対する否定は、即ち現代性に対する否定と批判である。この批判と否定は「三体2」と「三体3」でさらに展開され、やがて劉慈欣なりの答えも提示されるにいたった。しかもその答えは極めて独自性の強いものであり、決して虚無の詭弁を繰り返す以外になにもできないポストモダンのようなものではない。

『モダニティとポストモダン文化   カルチュラル・スタディーズ入門』(ジム・マクヴィガン、彩流社)によると、18 世紀の著名なフランス啓蒙学者は以下の 10 つの概念にすべて同意する。すなわち、理性、経験論、科学、普遍性、進歩、個人主義、寛容、自由、人間の本質の同一性、そして世俗主義である。特に、進歩という概念については、「人間の自然的、かつ社会的状況は、科学と理性を適用することにより改善され、その結果、幸福と福祉は永久に向上し続けるという考え」としている。近代の政治家と思想家も確かにそう信じて、そして一般大衆にこう約束した。しかし、現代性には未完成や矛盾なところが存在している。それが何なのか自分はまだ回答できないでいるし、小説でも明らかに示されていない。一応結果からみると、資本主義という現代性の枢軸は、第一次世界大戦から、不況、戦争、ホロコーストファシズム、環境汚染や生態災難の影響で徐々に信頼されなくなった。少なくとも人文学者の間ではそうである。そして現代性の最終形態となるべき共産主義も同じように、粛清、文革官僚主義、余計な審査、計画経済の死、環境災難やソ連の崩壊によって、学者や一般大衆に対する魅力を失い、信じられなくなった。しかも共産主義が活力を喪失した時期と、モダニティが終焉を迎え、ポストモダンの概念が各領域に拡張していく時期とが一致している*。これがポストモダンで言うところの“大きな物語の終焉”といわれるものである。セカイ系ともつながっているらしい。ポストモダンセカイ系ゼロ年代に眠っていてほしい。塩でも撒いておこう。

話を再び小説に戻そう。

劉慈欣はどうして文革から物語からはじめたかったのだ。しかも文革のシーンを一番頭に置きたかったのだ。中国の作家なら、文革のようなデリケートな話題は避けておく方がいいということなんかなろう系レベルの作家すら知っている。しかし、共産主義の理想、即ち現代性の理想が中国において破綻したことを強烈に印象付ける事物は、文革をおいてほかにないのだ。その破壊性は、新左翼の起こした内ゲバと過激な事件による学生や大衆の共産主義離れよりはるかに強かった。葉文潔を人類に対して絶望させるために、これよりいいシーンがあるわけない。だから審査に引っかかっても必ず書かなければならなかったのだ。しかもできる限り冒頭において、読者、特に中国の読者に最大な衝撃を与えなければならなかったのだ。

しかし、ここで注意しておきたいのは、劉慈欣は文革や葉文潔の経歴を通じて、共産主義の理想の破綻を示した一方、エヴァンスや『沈黙の春』(レイチェル・カーソン)を通じて資本主義の理想の破綻も多少なりとも示してくれた、ということだ。ここからさらに踏み込んで、理想的な資本主義的民主政治の限界と、ファシズムという資本主義でも共産主義でもない「第三の道路」と名乗った主義の破滅を、強く、詳しく、示してくれるのが、続編となる後の2作である。

さて、批判の後に、劉慈欣はどのような答えを出したのだろうか。その答えの全体像を知るにはやはり次の2作が必要だが、「三体」にもその答えの一部が提示されている。答えは三体人の社会だと思う。

三体人の社会をよく見てみよう。彼らは人類と違い、過酷な環境で生き残ったにもかかわらず人類が現代に作られた誇りとしたほぼすべての理念と価値観を持たず、そして人類よりも発展し、ついには人類を征服する為に地球までやってきた。三体人は社会から、寛容、自由、人権、個人主義を排除した。三体文明は何とか進歩してきたとはいえ、この地獄のような惑星にいる以上、いつ突然文明が滅んでしまってもおかしくない。したがって、「三体文明に約束された明るい未来があり、我々を止めるものは何もないだろう」と信じる三体人もさぞ相当少ないことだろうと考えられる。

つまり、三体人がこんな様でも人類より発達した文明を作りあげたことは、現代性が我々が思うような誇るべきものではない、文明を存続させ発展させるために絶対必要なものではない、という衝撃的なアイデアを提示してくれた。

さらに、先も言ったように、「三体」の作中における宇宙の全体像は非常に“まっくら”である。このような宇宙で生き残るためには、我々が真理だと信じている現代性・人間性の上に社会を築くよりも、三体人のようにただ生存するということだけに専念する方が効率的かもしれないと劉慈欣は示唆した。

実際に、中国の読者にも薄々このことを感じた人がおり、「劉慈欣には人間性がない」と批判する人も少なくなかった。しかし、ここで再び強調したいのは、劉慈欣は別に自分が書いている内容を認めているわけでもないということだ。仮に自分の書いた内容を認めているとしても、「三体2」と「三体3」で示された現代性を超えた答えはむしろ非常に明るいものであり、人類の可能性と偉大さをよく示してくれたと思う。

ちなみに、中国で評判のいい作家は大体ポストモダンやモダニティと関わっている。例えば2012年のノーベル文学賞を受賞した莫言や、中国SF作家韓松などの例が挙げられる。簡単な社会批判をモダニティ全体に対する批判に発展させることによって、作品の思想性を深められるだけでなく、非常に過激な内容でも審査を通れるようになるのがその理由ではないかと僕が思う。

ということで、「三体」の禁断症状に苦しい方々は、今すぐ英語版、或いは中国語版を注文しよう。絶対後悔することはないと約束します。